2011年03月17日
武将のはなし
自分は小学校の時からで、将来は史学の研究をするのだと夢見ていました。中学でも高校でも理数系はいつも下から数えたほうが早かったのですが、歴史に関してはいつもトップクラスでした。
今の戦国ブーム(すでに過ぎたかな?)が始まる前から、歴史物を読み漁り、そこに出てくる登場人物に思いをはせ、ドライブ中でも史跡があると、嫁はんに講釈たれて嫌がられてます。
ただ、歴史物を読み漁ったと言っても、私の場合非常にに守備範囲が狭く、自分の嫌いな武将に関する読み物はほとんど手をつけていません。
例えば、自分は大阪生まれなので、太閤さんを尊敬しています、よって、豊臣家(羽柴家、木下家)を滅ぼした徳川家の物はほとんど読んでいません。
当然好きな武将も、いわゆる太閤家恩顧の武将という事になります。
有名所でいえば、加藤清正さんや福島正則さん、蒲生氏郷さんや石田光成さん、大谷吉継さん。それ以前に太閤さんを支えた黒田孝高さんや竹中半兵衛さん、蜂須賀小六正勝さんなど。あげればきりがないのでこの辺で・・・
ただ、太閤さんとは敵対していた武将にも好きな人は当然います。
それが柴田家の家臣の二人「佐久間玄蕃允(げんばのじょう)盛政」と「毛受(めんじゅ)勝介家照」でしょうかね。
佐久間盛政は、柴田勝家の甥として生まれ、柴田家の重臣として豪快な気質、特に武功に秀でた武将として有名です。賤ヶ岳の戦いののち、太閤さんにとらえられた際、太閤さんは彼の智勇を惜しみ、家臣に加わるように勧めたのですが、彼は一言「この世の中に柴田勝家の他に自分が仕える武将がいるはずもない。遠慮なく市中引き回しの末首をはねろ。その際、あれが鬼玄蕃だとわかるように派手な衣装を着せてほしい」と行ったそうです。それを聞いた太閤さんは「やはりそう言ったか。そう言う人間だからこそ命を取りたくないのだが、逆に喜んで家臣に加わると言った時点で、玄番に対する愛着は消えるであろう」といったそうです。

鬼玄蕃の異名をとった戦国でも有数の猛将
もうひとりの毛受家照は、玄番とは全く逆のどちらかといえば陰鬱な人物であったらしいと推測されています。豪快な気質を好んだ勝家からは冷遇されていたらしいのですが、同じく賤ヶ岳の戦いで柴田家の敗走が決まった際、勝家に対し「自分が御大将の身代わりとして、柴田勝家を名乗って死にます。なので柴田家の金御幣の馬印を自分に預けて下さい」と言ったそうです。その時勝家は「死ぬときは一緒である、共に死のう」と言ったらしいのですが、勝介はそれを押しとどめ勝家を北ノ庄方面へ逃したのち「我こそは権六勝家なる。猿面公、出会え!」と言いながらともにいた二人の兄弟とともに太閤さんの大軍を引き受けたのち見事に死に花を咲かせたそうです。

大きな地図で見る
毛受兄弟の墓。いつも敦賀にいく道中に真横を通り過ぎます。彼らに思いをはせながらイカに思いを寄せる。節操のない人間ですね。
この二人に共通するのは「君、君ならずとも、臣、臣なり」と言った気持ち、心でしょうか。玄蕃は勝家の命令を無視することもたびたびあり、軽視していた面もありますが、それでも自分の仕える人間はこの世に勝家のみときっぱりといえる事。勝介の方は冷遇されていながらも最後まで勝家の家臣とし、柴田家のために生き、そして柴田家存続のために自分の命を投げうちました。
今の日本でこのような考えを出来る人間は存在するのでしょうか。私もそういった歴史小説を読みながらも、自分の為に生きる毎日。彼らを見習うべきところなんですが、実際は素晴らしいなぁと思いつつ何も自分の生き方を変えようともしない自堕落な人間です。まぁ「頭でっかちの歴史オタク」といったところでしょうか。
時代が違うと言ってしまえばそれまでなんですが、それだけで終わらせたくないですよね。ただ、彼らの志、生き方は到底自分にはまねできません。いつまでたっても只の歴史好きなおっさんであり続けるわけです。
じゃぁこんばんはこのへんで
おやすみやっしゃ
愛読書たち
今の戦国ブーム(すでに過ぎたかな?)が始まる前から、歴史物を読み漁り、そこに出てくる登場人物に思いをはせ、ドライブ中でも史跡があると、嫁はんに講釈たれて嫌がられてます。
ただ、歴史物を読み漁ったと言っても、私の場合非常にに守備範囲が狭く、自分の嫌いな武将に関する読み物はほとんど手をつけていません。
例えば、自分は大阪生まれなので、太閤さんを尊敬しています、よって、豊臣家(羽柴家、木下家)を滅ぼした徳川家の物はほとんど読んでいません。
当然好きな武将も、いわゆる太閤家恩顧の武将という事になります。
有名所でいえば、加藤清正さんや福島正則さん、蒲生氏郷さんや石田光成さん、大谷吉継さん。それ以前に太閤さんを支えた黒田孝高さんや竹中半兵衛さん、蜂須賀小六正勝さんなど。あげればきりがないのでこの辺で・・・
ただ、太閤さんとは敵対していた武将にも好きな人は当然います。
それが柴田家の家臣の二人「佐久間玄蕃允(げんばのじょう)盛政」と「毛受(めんじゅ)勝介家照」でしょうかね。
佐久間盛政は、柴田勝家の甥として生まれ、柴田家の重臣として豪快な気質、特に武功に秀でた武将として有名です。賤ヶ岳の戦いののち、太閤さんにとらえられた際、太閤さんは彼の智勇を惜しみ、家臣に加わるように勧めたのですが、彼は一言「この世の中に柴田勝家の他に自分が仕える武将がいるはずもない。遠慮なく市中引き回しの末首をはねろ。その際、あれが鬼玄蕃だとわかるように派手な衣装を着せてほしい」と行ったそうです。それを聞いた太閤さんは「やはりそう言ったか。そう言う人間だからこそ命を取りたくないのだが、逆に喜んで家臣に加わると言った時点で、玄番に対する愛着は消えるであろう」といったそうです。

鬼玄蕃の異名をとった戦国でも有数の猛将
もうひとりの毛受家照は、玄番とは全く逆のどちらかといえば陰鬱な人物であったらしいと推測されています。豪快な気質を好んだ勝家からは冷遇されていたらしいのですが、同じく賤ヶ岳の戦いで柴田家の敗走が決まった際、勝家に対し「自分が御大将の身代わりとして、柴田勝家を名乗って死にます。なので柴田家の金御幣の馬印を自分に預けて下さい」と言ったそうです。その時勝家は「死ぬときは一緒である、共に死のう」と言ったらしいのですが、勝介はそれを押しとどめ勝家を北ノ庄方面へ逃したのち「我こそは権六勝家なる。猿面公、出会え!」と言いながらともにいた二人の兄弟とともに太閤さんの大軍を引き受けたのち見事に死に花を咲かせたそうです。

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毛受兄弟の墓。いつも敦賀にいく道中に真横を通り過ぎます。彼らに思いをはせながらイカに思いを寄せる。節操のない人間ですね。
この二人に共通するのは「君、君ならずとも、臣、臣なり」と言った気持ち、心でしょうか。玄蕃は勝家の命令を無視することもたびたびあり、軽視していた面もありますが、それでも自分の仕える人間はこの世に勝家のみときっぱりといえる事。勝介の方は冷遇されていながらも最後まで勝家の家臣とし、柴田家のために生き、そして柴田家存続のために自分の命を投げうちました。
今の日本でこのような考えを出来る人間は存在するのでしょうか。私もそういった歴史小説を読みながらも、自分の為に生きる毎日。彼らを見習うべきところなんですが、実際は素晴らしいなぁと思いつつ何も自分の生き方を変えようともしない自堕落な人間です。まぁ「頭でっかちの歴史オタク」といったところでしょうか。
時代が違うと言ってしまえばそれまでなんですが、それだけで終わらせたくないですよね。ただ、彼らの志、生き方は到底自分にはまねできません。いつまでたっても只の歴史好きなおっさんであり続けるわけです。
じゃぁこんばんはこのへんで
おやすみやっしゃ

愛読書たち
Posted by 笑雪 at 22:00│Comments(2)
│歴史
この記事へのコメント
こんばんわ 初めまして!!
タカと申します。
フラフラと、ネット徘徊をしていたところ、同じ趣味をお持ちのご近所さんにブチ当たりましたので、思わず書き込みました。
私も、完全なる太閤贔屓で(太閤さんはそれほどなのですが・・・)、ありきたりではありますが特に治部少(司馬作品の影響かな?)には、男惚れをしております(笑)
春も近いので、釣果についても語り合えれば、嬉しいです。
タカと申します。
フラフラと、ネット徘徊をしていたところ、同じ趣味をお持ちのご近所さんにブチ当たりましたので、思わず書き込みました。
私も、完全なる太閤贔屓で(太閤さんはそれほどなのですが・・・)、ありきたりではありますが特に治部少(司馬作品の影響かな?)には、男惚れをしております(笑)
春も近いので、釣果についても語り合えれば、嬉しいです。
Posted by タカさん
at 2011年03月17日 23:55

おはようございます!まさかこんな近くに全く同じ趣味の方がいらっしゃったとは^^。司馬先生は子供の頃に近くにすいでいたこともあって非常に思い入れの深い作家さんの一人なんですよ。光成、かっこいいですよね。あくまでも家康の首を狙うその心。彼は絶対自分の私利私欲で動いていたんじゃないと思うんですよ。カヌー等を持っていないため釣果はお恥ずかしい程度にしかお話しできませんが、またお寄り下さい。書き込みありがとうございました。
Posted by 笑雪
at 2011年03月18日 06:01

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